日記・コラム・つぶやき

2010年11月 4日 (木)

夫婦善哉

 私事で恐縮ですが、実家の母がとてもいい写真を送ってくれたので、つい書いております。
コスモスを見に行った場所でとった父と母の写真です。

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 夫婦長い間連れ添うと、あれこれよい事も悪いこともあるけれど、こうして風景と一緒に一枚の写真に切り取ってしまうと、「夫婦って、やっぱりいいものだな」と思ってしまうような気がします。別に、夫婦って本当は悪い、という意味ではなくて、あれこれ葛藤や問題を抱えつつも、こうした写真として一瞬を凍結させてしまうと、それら葛藤などを越えて、これまでの歴史をまた読み替えてしまうものなのかも、と思ったことでした。

 とくに写真ではなくとも、その一瞬を凍結させる(時間の流れを止めるもの)何らかのイメージによって、私たちは、何度も自らの歩んで来た人生や周囲との関係性を読み直して(よくも悪くも)、今を確認しているのかもしれませんね。

2010年10月26日 (火)

カチカチ山ショック

 少し前の話になりますが、伝えたいことを伝える言葉をどう探すかに関して、真剣にショックを受けたことがあります。昨年のこと、4年のゼミで、たとえ話で「カチカチ山」の話をしたときのことです。

 この民話は、(「周知のとおり」と書くべきか迷うところが今日のポイントです)おじいさんが捕らえた悪タヌキが、おじいさんの留守にまんまとおばあさんを騙し殺して、逃げてしまいます。嘆くおじいさんを見た、やさしいうさぎが、おばあさんの敵討ちに悪タヌキをこらしめるという話です。
 しかし、カチカチ山、にゼミ生のみんな反応しません。きょとんとしているので、もしや・・・「この話、知らない?」と聞くと、「うーん、微妙・・・」という声が返ってきました。「ええっつーーー!」とかなりの衝撃を受けた私は、ちょっと落ち着きを取り戻して、丁寧に聞き直しました。「本当に知らない?」「少しは知ってる?」当時20名弱いたゼミ生のほとんどは、聞いたことはあるけれど、どんな話か具体的にはわからない、ということでした。
 「うさぎとカメ、みたいなものですか?」という質問もあり、「うーん、それとは違うねえ・・」としばし考え込んでしまいました。

 このゼミは、決して勉強が嫌いとか意欲がないとかいうゼミではなく、本当に学びの意欲も高く、活発に意見を交わすことのできる優秀な学生が多いゼミでした。それだけに、いっそうショックでした。
 ある「話型」にそって、説明できないということ。その話型を共有していなければ、伝えたいことの真髄は伝えられないということを、今更ながら実感したことでした。

 思い起こせば、もう15年ほど前になりますが、ベトナム留学中に知り合って、いまでも大親友の当時25歳の友人(日本人です)の「アリとキリギリス」にも衝撃を受けたことがありました。私が、年上っぽく「やっぱりやるべきときにはきちんとやった方がいいよ」という趣旨のことを彼女に話していたとき、「アリとキリギリスのように」と(なぜか私はこういう事例を挙げて話すのが好きだったようです、ちょっと嫌な感じですかね)付け加えました。
 彼女は「そうだよねー!やっぱ、キリギリスみたいに、遊ぶときはしっかり遊ばないとね!」と目をキラキラさせて答えました。「いや・・そうじゃなくて・・」と私の声は小さくなりましたが、同時にこらえきれず大爆笑してしまい、こういう捉え方もあるのか、と思ったことでした。彼女は大真面目に、アリとキリギリスの話の意味は、やりたいことをやれる時間は短いからしっかり遊べ、という意味にとるのが普通だと思っていたそうです。ただし、彼女は、自分で「私はこういうのホントに知らないの!」と自分自身の例外性を認めていました。私たちの世代で言えば、知っていて「普通」のことだったので、彼女のように、私と同じ世代でも「知らない」ことは、「もう!おもしろいねー!」と大笑いの種になるくらいで、今のようなショックとは質的に異なるものです。

 「カチカチ山」の話型が通じない、ことは、もちろん今の世代的にどのくらいの割合であるかはわからないので、例外的な事例である可能性もありますが、20人中ほとんど知らない、ということは、かなりの割合で知らないとも考えられます。別に「かちかち山」を知らなくっても、他の昔話を知っている可能性だった大いに考えられますが、自分の世代が当然と思っている話型が通じない一つの象徴的な事例かなと思えるのです。
 とすれば、自分が講義などを通じて、使っている「ことば」そのものを果たしてどのくらいの人が共有して、理解(とまでいかなかくとも類推)しているのか、かなり不安になってきたのでした。

 また、カチカチ山を知らないとすれば、例えば、子どもの頃にはどのような物語、そのような話型を踏襲した物語を摂取して大きくなってきたのだろう・・・たとえば、困難にであったとき、どういう話型によって、どのような物語によって、その困難を解釈する枠組みを得ていたのだろう?
 大人になるためのロールモデルを提供するのが、こうしたさまざまな物語の担う一つの側面であるとすれば、今の学生さんの世代では、どのようなロールモデルを提供する、どのような物語が、彼らのメインストリームなのだろうか・・・・

 などなど、果てしなく疑問はふくらみます。私の場合は、すぐに思い出すのが、「赤毛のアン」シリーズ10巻と、その後、中学でいじめに近い状況にあったときに強い力となった下村湖人の『次郎物語』でした。今、このような状況であるとしても、高校に行けばその状況は変るだろうし、それまで強くあらねばならない、などと中学生ながらに胸を振るわせて読んだ本でした。今の学生さんの世代では、どのようなものが、それに代わるのだろう・・・

 その後、機会があれば、学生さん(本学と国公立大)に尋ねています。もちろん、学生さんといってもさまざまな層があり、それによってまた傾向は異なりますので、社会科学的な分析とまではいきませんが、今のところ、はっきりしているのは、予想されたことではありますが、書物という媒体は少なくなっていること。書物であっても、マンガが結構な影響をもっていること。マンガは私もすきですし、活字本となんら遜色があるわけではないのですが、私の世代からすれば、ずいぶん変化したなあと思います。もっと前の世代ではなおさらそうでしょう。

 こうしてみると、伝えたいことを伝えるためには、伝えたい相手の理解する話型、具体的な物語を理解しないといけないなあと一層痛感しているところです。『ワンピース』や『スラムダンク』、その他のマンガも一度しっかりと読まなくちゃと思っています。

 このショックは、新鮮なショックとして、私の学びをまた起動してくれるものでした。


 

2010年10月25日 (月)

コミュニケーション能力って

 今日、3年生のゼミのときに、卒業生で住宅販売業の優秀な営業マンとなったKくんをお招きして、就職活動や学生時代の過ごし方、働くということについて、いろいろ話をしていただきました。
 以前、4年生のゼミでもお話してくださったのですが、今日もまたいいお話が聞けました。欠席している学生は聞けなくて、実にもったいなかったなあと思った内容です。働くということに関して、さまざまなエピソードをおりまぜて語ってくれたのですが、なかでも印象的だったのは、彼の話す「コミュニケーション能力」について、です。
 ちょっと想像するに、コミュニケーション能力とは、うまく自分を表現する力、話せる力と思いがちですが、そうではないそうです。では、具体的には何か?彼は、ご自分の就職活動の一例を挙げておられましたが、有名企業の本社面接(東京)でのお話でした。名だたる有名大学の学生たちと集団面接だったそうです。

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 東大や早稲田、青学など、彼からすれば、中央のそうそうたる名前の大学生と、かたや熊本からやってきた自分を卑下して自信を失いそうなところだったそうです。そのそうそうたる大学生の一人が話す内容は、Ⅰ、2年休学して、行く先々でバイトをしながら、バイクでアメリカを縦断した経験談など、彼からすれば「すげー!」とワクワク興味津々で聞くようなことばかりだったそうです。さて、面接の結果は? その学生は落ちて、彼は合格だったそうです。
 なぜでしょう?彼が面接担当官からちらっと聞いたことによると、コミュニケーション能力を見る集団面接では、自分の自慢話を滔々とする学生よりも、そうした学生の話を興味をもって一生懸命うなずいたり、びっくりしたりしながら、聞いている彼の姿の方が、コミュニケーション能力が高いと判断されたようです。
 つまり、アピールできるような内容をうまく語れるか、ということよりも、そういう周囲の人の意見を関心をもって真摯に聞ける力こそが、コミュニケーションを円滑にできるということです。たしかに考えてみればそうですよね。自慢話を滔々とする人よりも、熱心に興味を持って聞いてくれる人の方に、私たちは好意を持って、もっと自分の話を聞いてほしいと自分を開きやすくなるはずです。
 営業をするにしろ、あるいはどんな職種にしろ、これは通じていることです。自らを上手にアピールすることに長けているよりも、相手がいかにこちらに自分を開いてくれるか、それによって相手の心をとらえ、信頼を勝ち得ることが可能です。Kくんの話は、実に説得力のあるものでした。
 私も常々、ゼミ生にそうであってほしい、と思うことにも一致しています。周囲のどのようなことにも、まず真摯に関心をもって聞くこと。それによって、相手は自分が尊重されていることを実感し、どんどん自分を開いてくれるでしょう。そのように、自分を開いても大丈夫な場を相互に築くことができれば、自分の未知の力がいかんなく発揮されていくのだろうと思います。これを言えば否定される、こんなこと興味もってくれない、と思うような場はどんな才能も開花されないでしょう。
 企業やその他のさまざまな環境においても、こうした場をつくることがよい職場環境の基礎では、と思います。「感じの良い人」は概ね話し上手というより、聞き上手であることを考えれば、この基本を備えてはじめて成立する力が、コミュニケーション能力なんですね。
 Kくん、どうもありがとうございました。いつもよいお話を聞けて、勉強になります。このような先輩がいることは、後輩たちの大きな励みになりますね。

2010年10月22日 (金)

村上春樹と「邪悪なるもの」とシンケンジャー

 自分の周囲が雑然としてくるときは、心身の調子もそれに相関しているようです。物が片付かない、ちらかっている・・しかし、それを整頓していくことが億劫である・・・。

 子どもの影響で、「シンケンジャー」という戦隊ものを見ていたときに、いろいろ考えさせられました。シンケンジャーとは、三途の川からやってくる外道衆と戦う正義の戦隊です。興味深いのが、その外道衆がどこからこの世に侵入してくるかというと、「すき間」からなのです。壁と壁の隙間、建物の隙間、ありとあらゆるすき間から、ぬ〜と侵入するのです。すき間というさまざまな秩序の境目に、外道衆というこの世の論理からすれば邪悪なものが侵入してくる、このあり方は面白いですよね。

 部屋のさまざまなすき間のほこり、汚れなどから、そうした「邪悪なるもの」は私たちに忍びよって、私たちを損なっていく・・・のだろうか、と考えながら、雑巾がけなどしていると、思い出すのは村上春樹の登場人物たちです。

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 村上春樹の登場人物たちは、とくに金持ちとか優れた才能があるとか、美貌を誇っているとかではなく、相対的に普通ですが、邪悪なるなにものかと闘います。その闘い方は、物語によっては本当に暴力的に闘うところもありますが、通常の闘い方は、自分の身の回りの生活をきちんと整序し、規則正しく過ごすという形です。具体的には、きちんと食事をつくり、服にはアイロンをかけ、掃除洗濯をきちんと行ない、放っておけばすぐにホコリや油にまみれがちなところをピカピカに磨き上げる。そういう闘い方です。それを「闘う」というのはおかしいかもしれませんが、シンケンジャーを見ていて思ったのは、こういう日々の作業が「すき間」から忍びよる秩序を乱す邪悪なものの侵入を物理的にも防いでいる、という感じがしたのです。

 生活をきちんとするという、ごく当たり前だけれど維持していくのは不断の、地道な努力が必要な作業ですよね。そういうものが、巨悪?かあるいは邪悪なるものに、大言壮語でなく抵抗している形なのかもと思ったりです。

 心身の不調を感じるときは、だから、おいしい食事をがんばって作ったり、掃除に精を出してみるとかが、回復を助けてくれていると、私の場合は実感しています。

 小林靖子さんシナリオの戦隊ものや仮面ライダーなどは、ちょっとしたメタファー「すき間」なんかが、このように、とても考えさせられたりするので、注目しているところです。私と世代的に変らないのも、興味深いところです。
 村上春樹の小説にはあれこれ考えさせられることは当然のようですが、戦隊ものや仮面ライダーなど、いろんな世界の描かれ方もまた、面白いです。

2010年10月20日 (水)

就職活動の現在

 今日、4年のゼミで盛りだくさんな話題がありました(いつも4年ゼミは時間が足りないくらい、いろいろな話で盛り上がります)。就職氷河期に近い、と言われる現状でも、みなさん、本当によくがんばっています。そんな中、ゼミ生からも、一番早く決まるだろうと言われていた極めて優秀な学生が苦戦しています。彼女(Aさん)の優秀という意味は、単に成績がよい、というのではありません。それはもちろんのこと、その他の活動にも積極的で、全体をまとめて引っ張っていくリーダー的な資質をもち、ゼミ生からも深い信頼を寄せられているという意味です。
 私は、どうして彼女が内定をもらえないのだろうとずっと不思議で不可解でした。彼女が内定をもらえるところもあるのですが、彼女が志望している地場企業には苦戦しているのです。今日、再び、ある地場の有名企業に落ちたという話を聞きました。そのとき、その企業に内定をもらった過去の卒業生の顔が浮かび、少しこうかなと理由を想像できることがありました。
 Aさんは、外見から極めてアクティブでパワフルな感じの女性です。一方で、その地場の有名企業に内定をもらった卒業生たちは、ちょっと控えめで、一歩下がった女性という印象です。醸し出す雰囲気には明らかな違いがあります。
 とはいえ、Aさんも、少し一緒にいればわかることですが、分を弁えて、とても細やかな気配りをするいわゆる「女性らしい」方なのです。しかし、面接やちょっとした会話くらいではそこまではわかりません。アクティブ、パワフルそうな人だな、という印象でしょう。
 彼女がことごとく地場企業で内定をもらえなかったのは、おそらく「女性」としての企業内でのあるモデル像から逸脱するからではないでしょうか。女性は大多数の上司である男性に逆らわず、ほどよく支えてくれる存在、そういうイメージで人材を描いていたとしたら、どれほど有能でも、彼女は一見逸脱するのでしょう。有能であればなおさら、男性が多くを占める人事担当や役員の描く女性像から逸脱して、忌避されるのではないか、そんな気がしてきました。今や、男性、女性そんな区別なんかやっていない、いい人材をとるのだ、ということが現状かもしれませんが、選考に影響を及ぼす担当者の「第一印象」は、無意識下で旧来のモデルに従っていることはあり得ます。
 彼女にそのことを話したら、「そういえば、確かに私が内定をもらったところは、東京や大阪に本社のあるベンチャー系のところばかりですね・・」とうなずいていました。つまり、性差を問わずに、成果を見るところでは彼女の有能さに○を出すのですが(そのとおり、いくつか正規の面接をとばしても内定、ということもあったようです)、性差のもとに、職場内の人材をモデル化しているなら(無意識下でも)、やはり彼女のような個性は難しいのかもしれません。
 などなど考えていたら、就職活動の成否って、希望の職場の性差のモデル化に即した雰囲気を醸し出しているか、という視点なんかも必要なのかもしれませんね。
 でも、希望の職場の性差モデルに合わない場合、合う場所を求めるのがよいのか、その性差モデルに合わせて訓練していくのがよいのか(といっても雰囲気って訓練で作れるかどうか・・)わからないですね。
 もちろん、こんなことは一概に言えるものではありませんし。ただ、可能性としてあれこれ考えてしまいます・・・

 悩ましい限りですが、どんな場所にいっても自分が心地良いと思える空間をつくっていける力さえあれば(人と真摯に協力し、信頼される力です)、道は開けていくのかなとも思います。大丈夫、Aさん、そしてまだ未定の4年生。この厳しい就職活動の時期に、あなたがたはきっとうんと成長しているはずです。その成長を評価するところが必ず必ずあると思いますよ。

2010年10月17日 (日)

熊本保育研究会

熊本保育研究会のHPを作成して、このごろちょっと一息です。
おそらく子どもをもたなかったら「他人事」であったことですが、「社会と私のあいだ」を考える重要なタームになってきたなあと思います。
ともあれ、HPを作成しようとして、またブログまで書くようになった自分に驚いています。
環境が人を育てる(変化させる?)、をつくづく実感します。

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