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2021年2月26日 (金)

オープン・ダイアローグと余白

ふと記憶がよみがえり、悲しさや怒り、焦りや居心地の悪さを味わうことが常だ。そのときの私は、自分の中の独り言の世界に埋没して、世界には私しかいない。他者がいない世界で、ぐるぐる自分が生み出したモノローグの毒素や甘みを吸っている。

しかし、ふと、誰かが私に声をかける。私のモノローグは停止し、世界に他者が現れる。他者の言葉や行動を解釈して、他者と会話しながらも、また一方で自分のモノローグが始まる。そのときに、他者はいない。世界はまた私一人だ。

私が他者の存在を認め、他者の言葉に耳を傾けるとき、世界は開かれる。自分の閉じた世界の外へでる。そこは無限。荒漠とした、あるいは深々とした悦びに満ちたものか。他者を他者のままに、自分の世界にひきずりこんで解釈するモノローグにはしないままに、近接する場所か。

他者という未知の、理解を超えた他者性を理解の枠にいれずに、そのままにするときに、私と他者の間には、余白がある。その余白が無限の形としてさまざまに変化したグラデーションで存在する。私は余白を味わう。余白を余白のまま、モノローグにひきずりこんで私一人の世界でいないために。

余白を余白のまま味わうダイアローグは本当に難しい。世界に向かう姿勢そのものが問われる。

オープン・ダイアローグの素晴らしい本。ヤーコ・セイックラ+トム・アーンキルの『開かれた対話と未来』(斉藤環監訳・医学書院、2019年)を読みながら、レヴィナスの倫理の具現化を見る。

 

 

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