« 「フクシマ」論 | トップページ | icloudってすごい »

2011年9月 1日 (木)

「間」の取り方

 若い頃は、対人関係でうまくいかないことで若者特有の悩みを抱えていました。なぜ、あんなに悩んでいたのだろう?私自身に関していえば、「誰もに好意をもたれたい」という純粋だけれど、途方もない望みを抱いていたな、と思います。
 
 ああ、本当に年齢を重ねてよかった。今は、そうした途方もない望みを抱かなくなったため、かなりシンプルになりました。
 原則は、私が「友達になりたいか」「(積極的に)なりたくないか」「どちらでもよいか」という第一印象からくる直感にしたがって行動すること。そのため、「好意をもたれるためにはどうしたらいいか」に拘泥する時間がかなり限定されてきました。(これでいいのか?という問題もありますが、今回は脇におきます。)

 これらは、残る人生の時間が少なくなったせいだろうかとも思いますが、「友達になりたい」と思う人のみに拘泥しているので、若い時のような思い煩いがぐんと減りました。さらに、第一印象からくる直感というものも、結構優れてきたようで、合うと思ったタイプの人はたいてい合うし、合わないと思った人は、一旦合うように見えて、やっぱり合わなかったということを実感します。

 先日、もう16年も前にベトナムで、ほんの数日一緒にフィールドワークに参加したラオス研究者の知人から、彼女自身の翻訳書が送られてきました。彼女は、私とほぼ同じ年で、当時はラオスに留学中で、ラオスの近現代史を研究されていました。なぜか、私にとってとても印象深く親しみのもてる方で、ほんの数日ご一緒しただけだったのに、帰国後も、季節のごあいさつくらいですが交流の続いている希有な方です。
 直接お会いしたのは、ベトナムから帰国後、福岡に彼女が来られた折に夕食をご一緒したくらいで、あと10年以上もお会いしていないのに、私の中ではいつも親密な感じをもっている方なのです。そして、それは彼女も同様のようで、折々の手紙でそのことを書いてくださると、改めてうれしく、同時にどうしてだろうなあ、と不思議にも思っていました。

 私は、自分が友達になりたい、好きなタイプの人について、かなり明確に表現することができますが、その最も核心となる部分については、どうも曖昧でした。ラオス研究者の彼女のことを考えて、ふと、思ったのが、「間」です。お互いに対峙したときの、「間」の取り方がとても合うのです。沈黙が苦痛ではなく、沈黙のあとで、にこっと笑い合える、そういう「間」の取り方ができる。
 思い合わせれば、今でも仲のよい大好きな友人たちは、みんな「間」の取り方が合う人ばかりです。
逆にいえば、どんなに素敵だと思う人でも、自分と「間」の取り方が異なると、一緒にいるのに緊張し、やがて音信も途絶える。そんな感じです。

 では、「間」の取り方(あるいは「間」の表現)って何か?おそらく、相手を受容する(肯定する)雰囲気が、その「間」にこそあらわれる、ということなのかもしれません。つまり、「この人は自分を受容してくれている」ということを直感的に確信することが、私と「合う」人だという認識につながるようです。
 言葉でいろいろ素敵な興味深いことを聞かされても、ふとした「間」の取り方でこちらに対する「受容度、寛容度」をキャッチして、私は自分と「合う」「合わない」を察知するのでしょう。

 これは、あながち間違いではないような気がします。これらの「察知」も、年をとればこそです。やっぱり齢を重ねることは、いいことがたくさんありますね。

« 「フクシマ」論 | トップページ | icloudってすごい »