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2011年2月

2011年2月17日 (木)

卒論のテーマ

 本日やっと卒論の編集がおわり、印刷へお願いしました。
今年度16名卒業(予定)で、16名の卒論タイトルが揃いました。
 
 花街文化の歴史にみる日本女性のおもてなし、南の島のひみつ、聖書から学ぶホスピタリティ、海外旅行から知るホスピタリティ、CAFE、宝塚歌劇が長く愛され続けることとホスピタリティの関係、家族十人十色、エンターテインメントから学ぶホスピタリティ、共感によるホスピタリティ、スタジオジブリから考えるホスピタリティ、うつとホスピタリティ、音楽とホスピタリティ、子育てに対するホスピタリティ、異文化から学ぶホスピタリティ、包む心とホスピタリティ、サッカーとホスピタリティ

 これだけ揃うと、読み応えがあります。
 学科で学んだ4年の成果を、それぞれの個性において、魅力的な一つの形にされたと思います。大学教員にとって、学生の卒業論文とは、個々の学生に対する記憶として残るものであると同時に、共に過ごしたその時間の形象でもあるのかな、と思いますが、今年の論文集も、それぞれのタイトルから、ゼミ生の顔が即座に浮かぶ、そんな論文です。

 みんな一番好きなことに取り組みました。好きなことがいろいろある方(がほとんどでしたが)は、どうしてそれが好きか、なぜそれでないといけないかをじっくり自分と対話して、選択してもらいました。
 「書きやすそうだから」という安易な言葉はキッパリ引っ込めてもらい、「書きたいもの」「考えたいこと」「伝えたいこと」をどうやったら形になるか、形にしていくかを考えてもらいました。そして、それをどうやったら深められるかを、発表のたびごとに考えてもらいました。深めて掘り下げた先に、学科で学んできた「ホスピタリティ」の何らかの切り口につきあたるはず、という前提のもとで、です。
 
 学んだことが面白かったなあ、もっと学びたかったなあ、と思ってくれれば一番です。
 卒業後、いろんなところで面白いなあ、とちょっとでも興味をもつものを、学びの起動へとつなげてもらえれば、それがみなさんの「卒論作成」の成果です。

 それぞれのタイトルと内容へのコメントはまた改めて。

2011年2月14日 (月)

ホスピタリティ・マネジメント学科と実践の現場から:Kくんからのメール(2)

 さて、前回の続きです。
Kくんから、また次のようなメールをいただきました。

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 知識がないのにお恥ずかしい限りですが、仕事で近いことを考えることが多いので、もっと知りたいと思ってしまいます。
 ‥ 私が感じた贈与と返礼の順番のことも、接客する側の人間の受け止め方次第として考えると、結局は接客する側の個人の問題として処理してしまい、取り巻く環境などを含めた問題点に触れることなく、総合的な解決とはならないような気もします。
 先生が書かれたなかで、「心理学主義化の時代」の項の、さまざまな問題も個人の問題に還元してしまう心理主義の時代の特徴、と同じになってしまう気がします。
 学問や研究としては総合的に見て問題点を解決すべき。会社の一社員としては、総合的な解決と同時に、というよりむしろ、まずは自分が個人としてどう向き合い、解決できるかを考えるような気がします。ある意味、環境や会社、お客様に変化を求めない分、自己啓発的だけで本当の意味での解決とは違うとも思います。
 難しいのは、経営者ならば自分の判断で会社ごと変えることができますが、一社員とした時のホスピタリティの捉え方と実践の仕方です。そうなればやはり自己啓発的な話になりそうで。
 考えれば考えるほど深みにはまりそうです。お客様は何に感動して下さるか一人一人違いますし。先生に答えを頂きたいです。
 
 まずはこんなに考えてみたことが私にとっての人生のプラスであると自分に言い聞かせ、答えの先延ばしに利用します。長々とすみません。今年もよろしくお願いします。
(2011.1.4)
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 「心理主義化の時代」とは、森真一『自己コントロールの檻:感情マネジメント社会の現実』(講談社メチエ、2000年)の用語を使って説明した箇所です。これは、顧客満足に関心が集まったのが、アメリカの自己心理学ブームではないかという視点で、自己啓発によって自らの人生も変えていけるとする考えです。そうなると、人生や取り巻く環境がよくならないのは、そうできない「私」が悪いのであって、「私」さえなんとか高めていけば、うまくいくのだ、とさまざまな問題の要因を個人的にものに帰してしまうものです。つまり、宗教学者の島薗進の指摘するように(島薗進『スピリチュアリティの興隆:新霊性文化とその周辺』岩波書店、2007年)、諸問題を解決する手だてを社会に求めずに自己責任に帰してしまうところが、基本線において、商業主義や消費社会を助長する一旦にもなっているわけです。
 会社員としてのKくんの指摘するように、経営者ならば会社まるごと変えることができるけれども、一社員として、会社環境のなかにどう実践していくかは、やはり自己啓発的な話になりそうというのはその通りでしょうね。
 ただ、会社の環境をそういうものだと唯々諾々と受け止めずに、「ホスピタリティ」の視点でその環境をどう作っていったらよいかを柔軟に模索していくことも大事なのでしょう。望ましいのは、そういう社員の意見なり実践に対して、積極的に耳を傾けていく経営者であれば、ホスピタリティ型の経営実践は可能になるのでしょう。
 しかしながら、経営者でもない一社員は与えられた環境でどうやって働くかというところで、自己啓発にならざるを得ない側面がほとんどでしょう。Kくんからの下記のメールのように、業績を上げられないのは自分の責任である、自分さえがんばればいいのだ、と自分に責任を集中させすぎると、心身ともに疲弊してしまいかねません。
 難しいことですが、大学で「ホスピタリティ」を学ぶ意味は、自己啓発に陥りがちな会社の環境においても、自分の与えられた場や社会への客観的な視点をもちながら、どうやって柔軟にその環境を「ホスピタリティ」の視点からよりよくしていけるか、自分と対話しながら成長していくことであろうと思います。

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 何度もすみません。メールありがとうございます。‥
 会社員としての見方だけでは総合的な見方が難しい部分がありますが、ホスピタリティの研究のように総合的に見ることこそが根本的な全体の発展になるのではないかと思います。
 私のいる業界も、若手社員の退職や、鬱になる社員がとても多いです。先生がおっしゃるように自分が能力が低いからと、仕事がうまくいかない理由を自分だけのせいにする若手が多いのだと思います。その点においても心のバランスをとることにホスピタリティの考え方が助けになりそうですね。
 ‥ それを知った上で社会に出れる学生さんはうらやましいです。私の時代にも欲しかったですね。‥‥時代、地域、宗教と、細分化されることにも難しさがありそうですね。会社や、お客様にも違いがあるでしょうし、すごいテーマです。
 こうやって考えながら正月の接客をやりましたら、ちょっと客観的に自分の接客を考えられました。今日は寒いですね。と、これだけの私の言葉には、こんにちはいらっしゃいませ。に加えて、今日は寒いというお互いが当然に感じ合える、共有できる感覚を口にすることで、敵ではないというような安心感を持って頂きたい。と思いながらあいさつをしているのだと自覚しました。
 また、それに対して、そうですね。雪まで降って寒いですね。とお客様がおっしゃって頂いたら、そのお客様を受け入れ、より熱心に接客できていることにはっきりと気付きました。そうでないと熱心さに欠けるということは、私の未熟な部分なのですが。‥ 新たな発見でした。
 日々このような発見がありそうで楽しみです。
(2011.1.6)

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 私が、ふと疑問に思ったり、面白く思ったり、不愉快に思ったりしたことが自分の学びの起動力であるのに対し、卒業生たちによって、こうして検証してもらえ、また、新しい刺激をいただけることは学びの持続エネルギーです。
 Kくんをはじめ卒業生のみなさん、またいろいろ教えてください。

2011年2月11日 (金)

ホスピタリティ・マネジメント学科と実践の現場から:Kくんからのメール(1)

 今日は、卒業生のKくんから頂いたメールをご紹介します。彼は、私の属するホスピタリティ・マネジメント学科の卒業生ではありませんが、私が商学科にいたとき、1年のゼミで担当した学生さんでした(当時はホスピタリティ・マネジメント学科はまだできていなかったので)。卒業後も折々にご連絡をくれて、住宅の営業としてどんどん業績を伸ばし、今では荒尾市の住宅展示場の若い店長として、がんばっておられます。彼の社会人としての職場での実践や生き方、考え方などは、今の大学生にぜひ聴かせたいと思って、ときどきゼミに来ていただき、話をしてもらっています。以前、コミュニケーション能力について話してもらった方です。
 ご紹介するメールは、昨年、学科の入門書(熊本学園大学商学部ホスピタリティ・マネジメント学科『ホスピタリティ入門』熊日文化センター2010年)として、学科の教員9名のそれぞれの視点から書いた中で私の担当分「ホスピタリティってなんだろう?マジックワードとしてのホスピタリティ」への感想です。
 拙論の中で、私は公共性の高い職場(運輸業)で働いているホスピ学科1期生Aさんからのメールを事例に出していました。Aさんの近況報告は、大学で学んできたホスピタリティを職場に生かそうと高い志で臨んでいたのですが、じっさいには多くの人の行き交うような場所で、さまざまなお客様に理不尽な要求をされたり、暴言を吐かれたりと、ホスピタリティを実践しようとしても心がくじけてしまう連続、というものでした。

 私は、常々、よく事例に挙がる(講義でも紹介する)ホスピタリティ産業本における多様で曖昧な「ホスピタリティ」の概念を整理するための視点がないかな、と思っていました。Aさんのメールでさらに考えさせられました。そこで、大学で学ぶ夢や感動のホスピタリティの教科書の事例と、現実の多様な有り様を同一に理解し、実践しようとしても矛盾が生じる。その矛盾の理由を整理し、ホスピタリティの概念を、語源からみた共同体の内と外という視点からとらえる提案をしました。
 ここでは割愛せざるを得ないので、わかりにくいと思いますが、主要な点は未知の異人(=客人)を共同体が受入れる際の「贈与」と「返礼」から考察したことです。
 要約すると、ホスピタリティには2種類あり、①共同体を外部の異人に開くホスピタリティと②共同体内を維持するためのホスピタリティ、という視点です。一見さんお断りや、会員制の店や顧客の社会階層が限定されるようなホテルなどは、①外部に開くためのホスピタリティよりも、②内部を高めるホスピタリティに専念できる度合いが高いのに対し、Aさんのような公共性の高い職場では、外部の異人を限定(選定)できないために、常に外部に開くホスピタリティ①に終始しなくてはならない、ということになります。
 それが具体的にどういうことか、というと、こちらから異人である(どんな人かもわからない人に)笑顔であいさつし、おもてなしし、自らを開く、ということです。これは、想像に難くありませんが、とてもストレスフルです。だって、共同体のメンバーなら、どんなことを喜んでくれるかわかるので、声をかけやすいですが、そうでない異人は逆に「うるさい!」と怒られるかもしれませんから。
 しかしながら、そうしたこちら側からの勇気をもった声かけ(=自らを開くこと)がなければ、異人は関わることもなく通過していきます。勇気をもった声かけが、異人を共同体内部(会社・職場)のルールに招き入れることを可能にする「贈与」というわけです。それに対して、ただしく異人(=客人)が返礼すれば、その後もお客様としてコチラ側の共同体のルールの支持者になる、ということです。
 ①共同体を開くホスピタリティが主な職場、つまりAさんの職場の特性において、理想の感動的なホスピタリティの実現は、大きなストレスを前提にしないとなかなかできないことかもしれません。感動体験を示す本は、共同体のルールを共有・支持する客人の事例②が主なので(リッツカールトン、ディズニーランドなどの事例)、それは共同体のメンバーがあらかじめある程度限定されており、恐ろしい?異人にこちらから開いていくホスピタリティばかりではないからです。

 かなりの省略で大意が書けたか心許ないですが、今日の本題は、その拙論に、実際に社会で働く営業の現場から感想をくれたKくんのメールです。それは、以下のようなものでした。

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 お変わりないですか?先生に頂いていた本拝読しました。遅くなってしまったのですが。
 おもしろいというと語弊がありますが、読み進めるのがわくわくしました。‥ 何より今ホスピタリティというものの中で経済活動を含み生きている者として、内側からは勿論、ちょっと客観的にも考えることができました。

 Aさんのように受け入れられることばかりではない中で、冷静にこちらが異人を、それでもどう受け入れるか、受け入れなければならないか、改めて考えました。受け入れなくても良いのかとも考えましたが、受け入れなければ収益が出ない。断り方を間違えれば企業の評判にも繋がり、ホスピタリティの関係を築けるはずであった未来の異人を逃すかもしれない恐怖があります。難しいですよね。

 私の場合は展示場に来て頂いた時点で、お越し頂いたということがお客様からの贈与と捉えるのも一つかと思います。それに対する返礼として住まいづくり全般、商品説明、世間話でも行う。
 その先に利益があり、お客様の満足もあるのかもしれないと。お客様に頂く贈与の大きさを大と捉えるか、小と捉えるかは接客を行う個人で差があって然りですが、他人には小を、自分にとっては大と、いかに心豊かに捉えることができるかによって、お客様への返礼としての接客がかわってくる気がします。

 私たちの返礼をお客様が大なる贈与と捉えて頂けた時、ホスピタリティと利益の関係の始まりなのかもしれないとも思うわけです。そう考えると贈与と返礼の関係は、こちらとお客様では順番が違うように感じているのかもしれないとも思います。
 接客する人間にとっては、先にお客様から贈与して頂いたと捉えれば、お客様への返礼としてのもてなし等を頑張る活力になるのかもしれません。
 いらっしゃいませ。の後にはお越し頂きありがとうございます。精一杯おもてなしさせて頂きます。という言葉が隠れていると思えます。

 まだまだ読み終えて間がありませんので、もっと深く考え、拝読致します。ちょっと経過を報告したくてメールしました。(2010.12.17)
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 本当に素晴らしいメールで感動しました。私はもてなす側から、もてなされる側への贈与、という視点から出発したのに対し、Kくんは、まずお客様が来ていただいたことを「贈与」と捉えてはどうか、とし、それに対する返礼として、心からのおもてなしをさせていただく。
 本を読み、理念だけに走りがちの私の見方は、Kくんの実践の場のコメントで、「なるほどなあ〜!」と目が覚めるような知見をいただくことができました。
 こうして、「ホスピタリティ」ということばで、社会で活躍する卒業生たちと会話でき、それを軸に思考や実践を鍛えていけるって、ありがたいことだとつくづく思ったことでした。

 彼の「ホスピタリティ実践」に関するメールは、その後やりとりし、まだ続きがあるのですが、長くなりましたので、また次に。
 

2011年2月10日 (木)

自立・自律した人間

 前回書いた和地由枝さんのご講演後の懇親会のときのことです。長井解子さん(ひまわり保育園前園長)が、ひまわり保育園の初代理事長だった福田令寿先生のことをお話しされました。長井さんは常々、初代理事長である福田令寿先生のことを感嘆と尊敬を込めて、お話されます。私はその福田令寿先生という方がどのような方か、恥ずかしながら、よく知らないまま聞いておりました。しかし、熊本名誉市民であり、熊本では大変高名な方であったということを、やっと理解しました。

 福田令寿先生はお若いときに外国で医学を学び、熊本で今でも高名な病院を設立され、ハンセン病問題等、福祉に多大な尽力をなさった方ということです。そういう方が熊本におられたのかあ・・その方が初代理事長であった保育園だからこそ、長井さんはこんなにリベラルな生き方と姿勢を貫かれているのだなあ、などとあれこれ考えていると、そのとおり。長井さんは、「理事長が福田令寿先生だったからこそ、自由な保育園経営ができた」と強調されました。「そうでなかったら・・・」。
 その言外の意味は、女性が働き続けることへの批判や党派的なしがらみなど、保育園の園長として、当時からいかに多難であったかということなのです。

 党派性について私も驚いたことですが、「子どもの育ちを考えるために」とごく当たり前の話をするときにも、聞く相手によっては、こちらが想像もしない政治的な色分けをして聞いていることがある。これには、当初、結構な衝撃を受けました。
 こちらの話を「聞く相手」は、手っ取り早く他者を分類するのに楽な政治的色分けをするんでしょう。色分けすることによって、敵か味方かがすぐに理解され、対応がしやすいからでしょう。しかし何とも安易な、という感じです。何かを理解するにおいて、呆れるほど稚拙な分類にしか思えない、と感じていたところに、話は福田令寿先生に戻ります。

 「福祉は、政治や宗教を超えたところにある」。
 福田令寿先生が常々言われていたことだそうです。党派的なしがらみや宗教的思想に拘泥されずに(ご自身はクリスチャンだったそうですが)、ご自分が思う道を進まれていた福田先生のこの言葉を長井さんが話されたとき、懇親会のメンバーたちは「すごい・・」と一様に感嘆の声をあげました(もちろん私も)。
 すかさず、和地由枝さんが言われたことばは、「その方は、本当に自立(自律)した方だったんですね!」。
 一同は、ああ、たしかにこういう方を「自立(自律)した方」というのだろうなあ・・と和地さんのことばに大いに納得させられたのでした。

 日本のよく言われる集団主義的側面、つまり影響される集団によって個が決定され、個が逆らえない、そのような個は集団のなかでは生きられないような、そういう側面があります(ここでいう個は西洋における個とも厳密には異なります)。地方ではなおさらです。
 その美点もたくさんあり、日本の良さももちろんそこに詰まっていると私も思います。しかし、ちょっと逸脱しかねない個を押さえ込む土壌であれば、新奇なことや創造性に富むようなことははなかなか醸成されません。

 長井さんのお話をとおして想像される福田令寿先生は、明治の世から昭和にかけて、その個をどのような時代状況・社会情勢においても埋没させることなく、自分で律し、育て、自分で立っておられた方なのでしょう。
「本当に大人が自立(自律)しないと、育てられる子どもたちが自立(自律)するわけがないよね」とメンバーと、自戒をこめて話していたことでした。この自律・自立は、和地さんの「理念をもって」保育をする、ということに通じるのでしょうね。
 本来の「大人」とは、自立・自律した人間だとすれば、党派的・集団的な分類のうちに自らの安全地帯を探り、個としての理念が何かわからなくなくあり方は、「大人」たりえていないのだろうと、これも自戒を込めて思いました。

 内田樹さんの『大人のいない国:成熟社会の未熟なあなた』という本のタイトルが浮かびました。

2011年2月 8日 (火)

流れる日課

 先月のことですが、1月29日(土)に熊本学園大学の14号館1階で、和地由枝さん(社会福祉法人ずくぼんじょ 松の実保育園前園長[千葉県流山市]・NPO法人コダーイ芸術教育研究所理事長)をお招きし、「流れる日課と保育士の環境整備」についてご講演いただきました。現場の保育士さんや園長たちが市外からも数多くご参加くださり、熱心な質疑応答もありました。

 私は保育を専門とする研究者ではありませんが、お話を聞いていて、「流れる日課」はどのような人とかかわるときも大事なことだと思いました。「流れる日課」とは、慌ただしい保育現場で、保育士たちが流れるように、スムーズに日課をこなす。そう私は思っていたのですが、そうではなく、子どもの育ちや要求を中心とした「子どもの生活」が、流れるように進むことの意味です。

 私が講演の中でキーワードだと思ったことは、「子どもの人格を尊重する」ということです。
 どんな月齢であろうと、子どもは人格をもっており、そしてみずから学び育つ力がある。その育ちを自ら楽しみ、自ら学んでいく子どもたちを手助けしていくのが、保育の仕事である、というものだと理解しました。したがって、和地さんは、とにかく集団の中に園児たちの個性を一並びにせずに、一人一人を、とにかく「よく見る」のです。そして、何を望んでいるのかを理解すれば、何が今、必要であるかは観察と経験によって保育士は理解でき、その子に応じたそのときの対応が可能となる。子どもの育ちを疎外せず、必要以上に急かさず、焦らせず、かといって過保護に手を差し伸べすぎない。その子どもをじっと見ることで、その子自身がが自分で育とうとすることに必要な援助を適切に与えるのが、「流れる日課」で実践されていることのようです。
 実際の子ども達の園での光景をDVDで流したところ、多くの参加者から「驚く程、子ども達が落ち着いている、静かだ」「うちの園では子どもが寝なくて困っているのに、どうしてこのDVDで見る子どもは、すぐに寝るのだろう?」などとの質問が出ました。和地さんは、子どもが眠くないときに寝せても寝ない、本当に子どもは今それを望んでいるのか、子どもの生活のリズムは個々に異なるので、観察しないといけない、ということでした。そして、本当にその子が寝るときなって、ベッドに連れていけば、すぐに眠るのだ、と。たしかに、寝ないと焦るのは、保育士にとっての保育の都合上のことである。一人一人の子どもを中心に考えて、その子どもにとって「流れる日課」を補佐することに努めれば、よいのである、ということでした。
 いやいや、でもね。数十人もいる子どもを数人の保育士で見る時に、一人一人の子どもにあわせた流れる日課が本当に可能なんですか?そんな疑問も飛び出します。保育士の過重労働と不足する運営費の中で、どうしたらそれが可能なのだろう?
 うん、うん、たしかに、そうですね。

 しかし、和地さんによれば、「できないからといって、しないんですか?」。
 できなくても、とにかく「やる」のだ。「なんのために保育を行うのか?」「子どもを人格として尊重し、その自ら育とうとする『育ち』を助けるという『理念』を貫くこと」が、常に優先されるのではないかということでした。
 「理念って、本当に大事ですね。」和地さんは、そう言われ、その理念を貫こうとしてきて、なんとかここまでやってきた、との言葉にはしみじみ重みがありました。

 大学教育に携わる者として、大講義などの矛盾も多く感じながら、せめて少人数のゼミでは一人一人の学びの成長に沿った手助けをと常々思っていたことと重なるお話でした。乳幼児であろうと大学生であろうと、「誰を中心に考えるか」ということは、人の育ちにかかわる職業には、最も忘れてはならない視点なのだ、と思ったことでした。育とうとする本人たちを観察し、よく理解して、その育ちを個々に助けるあり方が、大事なんですね。

 今の時代、経費削減の旗印として「合理化」の言葉はマネジメントに限らず、どんなところでも重要です。しかし、「何」を中心に考えて合理化するかを取り違えてはならない、と改めて思いました。そして、「理念」の大切さ。理念は経験とともに変わりうることはありますが、それでも、理念がぐらぐらしていたら、特に人とかかわる仕事の場合、取り返しのつかない影響さえあるかもしれません。
 正義を振りかざすような強固な「理念」だったら、ない方がましだと思いますが、他者の意見に時には柔軟に耳を傾ける余地のある「理念」をもちつづけるのは、松の実保育園のように、独自の道を切り開いていくのだろうなあ・・・

 和地先生、どうもありがとうございました。肩書きから想像される堅い感じの方ではなく、気さくな江戸っ子という雰囲気の方でした。ぜひとも、またお目にかかりたい方です。

2011年2月 1日 (火)

ホスピタリティ・マネジメント学科って

 今日は朝から嬉しいメールが飛び込んできました。昨年卒業したゼミ生からです。彼女は、最初からあるアパレル業一つに絞って就職活動をしていました。基本的態度や姿勢、物腰もすべて大人の雰囲気の彼女は、志望動機も自己PRも魅力的で、絶対採用されるだろうと私は思っていました。
 ところが、結果は不採用。しかし、彼女はその心底惚れ込んでいたその会社以外は受けずに、春からアルバイトとして働くことに決めました。正直、私も「別の会社を受けたら‥あなただったら・・」と言いそうになりましたが、彼女の意思は堅く、しかも彼女だったら自分の決断を裏切らないよう、これからを生きていくだろうと思い、とくに新たな就活を勧めたりしませんでした。彼女は、アパレル業界の比較についての実直な卒論を書いて、昨年3月に卒業しました。
 今朝、その彼女から「今年の3月から正社員として採用されることになりました!」というメールが届いたのです。ああ、よかった・・・としみじみ思いました。大卒後にアルバイトで入るという決断には親御さんもご心配されたでしょうが、彼女の働きぶりで、職場での地位がどんどん上がり、結果、正社員採用となったそうです。ほんとうにうれしいメールでした。

 私のいるホスピタリティ・マネジメント学科では、「ホスピタリティって??」と真剣に問い続ける学生さんが非常に多いです。それを理論で、実践で、そして実際の3ヶ月にわたる地元企業でのインターンシップで、大いに悩み、問い直し、そして就職活動をしていきます。人と人とのつながりにおいて、どういうことが大事なのかを「ホスピタリティ」というキーワードで考えて、接客、あらゆるサービス業の現場、その他さまざまな職種はもとより、通常の人間関係に活かしていけることを目指した学科です。
 私が考える本学科の一番いいところ?それは、「ホスピタリティ」という言葉が一生きっと忘られないキーワードとなって、卒業生たちの人生の碇となるのでは、ということです。勝ち負けの厳しい社会の中で、どのような職場においても程度の差こそあれ、過労やストレス、何らの悩みを抱えずにはいられないでしょう。
 しかし、そういうときにこそ、自分は何を目指して働いているのだろう、働くことにおいて大事なことは何だろう?ということを、「ホスピタリティ」のキーワードによって、踏みとどまれるのは、と思うのです。本学科で、卒業までに、「ホスピタリティ」についての答えが見つかろうが見つかるまいが、探そうとしていた「ホスピタリティ」のキーワードが、荒波の中の碇となって、自分との対話を甦らせてくれるんじゃないかなと期待しているのです。
 『ホスピタリティ入門』(熊日情報センター、2010年)にも書いたことですが、本学科の卒業生は、社会に出てからも、「いろいろ大変なことはあります。本当のホスピタリティって何かわからなくなります。」「でも、もう一度考えてみます。」というように、荒波に流されるままにならないで、この本学科のスローガンで、踏みとどまって自分と対話している人がいます。これは、学科として誇れることだなと、と常々思っています。

 また、専門学校との違いをよく聞かれるのですが、本学科のよいところは、何かを目指して4年間を一直線に過ごす学生ばかりでなく、あれこれ紆余曲折することも積極的に大事にしているということです。たとえば、ホテルマンやホテルウーマンになりたくて入学してきた学生もいますが、インターンシップを経験したり、あれこれ模索しつつ、別の職種に自分の道を見出したりしています。つまり、この4年という時間と、大学の提供するさまざまな空間と装置が、高校卒業時の一直線の思いを逡巡させ、自分と対話させていくのです。最初から何かになりたい!と思って入学する学生ばかりでなく、「人に接するのが好き」「誰かの役に立ちたい」から、どんな方向に進もうかと未知の世界を模索するために入学する学生も多いです。そういう学生は、まさにこの学科の時間と空間、それからホスピタリティには結構熱い教員たちとの対話で、徐々に道を決めていける、まさに逡巡する時間が待っています。
 いいところに就職さえできればいい、資格さえもっていればいいと、ある種、短絡的な目に見える結果をもとめる風潮は根強くあります。もちろん、この不況下ではそれは致し方ないことかもしれません。学費を捻出する親御さんにしてみれば、就職がその成果であると思うのは当然のことでしょう。

 一方で、卒業後の「就職」がどのようなものであるか、その質そのものは問えない(というか客観的に表しにくい)のが現状です。すぐに離職したり、我慢してストレスを溜め込んで、うつ病になったり、など就職したあとの「生きる形」は、大学教育の直接の成果としては判断されませんし、把握しようもありません。
 しかしながら、私は、知識を短期間に詰め込むばかりでなく「逡巡させ自分と対話させていく」大学教育の成果は、就職したあとの職場や社会で「生きる形」であろうと思います。つまり、どこに就職したかではなく、どういう形で卒業生が社会で生きていくのか、どのように心地よく過ごせるかが、もっとも大事な大学教育の結果だと思っています。
 本学科のキーワードの「ホスピタリティ」は、それを「学」として学び、また卒業後の「生きる形」の指標の言葉として掲げているものかもしれないなあ、と改めて学科の意味を見直したりしています。


 もちろん、卒業後の「生きる形」など、見えようはずも、数値になろうはずもありませんが、卒業生たちが学科の卒業生であることを「誇り」に思えるような学科の教育をしたいなあ、と思うこのごろです。

 卒業生の近況報告に、「ホスピ学科1期生の○○です」とか「私は3期生として・・・」と書いてくれること。また、今朝のようなメールをいただいたりしたとき。これは、彼女たち彼らが学科の誇りをもっていてくれる(ごくわずかな)証左かなと・・・と、ちょっとうれしいですね。

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