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2010年11月

2010年11月24日 (水)

インプットとアウトプット

 このごろ、インプットにばかり夢中になってしまって、すっかりアウトプットをしそびれていました。
 考えたい内容がどっさりあって、あれこれも、あれこれ考えているうちに、また次の興味深いことが出てきて、また別の本を探して読む、調べる・・・などなど。このインプットの時間は本当に楽しくてたまりません。
 興味を惹かれる内容は自然とわき起こるのではもちろんなくて、時事問題に示唆されたり、学生さんと話したり、保育園の保護者友だちと話したり、それはあちこちからの刺激を受けてのことです。
 面白いなあと思っていることで、まだアウトプットにまで至らないのは、たとえば、上野千鶴子さんの新刊『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』。読後感が悪くなるのをご本人が予想されるほど、日本社会の男女の関係を奥底からえぐり出しています。読んでいて痛快になったり、考えさせられたり、本当に面白い本でした。しかし、この論調で、引っかかる点がいくつかあって、私はどういう点にひっかりを覚え、全面的な共感に至らないのかを考えていました。このごろ、その糸口が少し見出せそうで、ちょっとワクワクしています。また、男性はこれをどう読むのだろうと、それも興味深いです。
 それから、学生さんから教えてもらったブログで人気の「あの女」です。ブロガーのゴマブッ子さんは、「もてないゲイ」とプロフィールにありますが、実に面白いブログです。男女の間には深い深い溝というか、底なしの深淵があるというのが私の想像の入り交じった実感なのですが、ゴマブッ子さんは、その架け橋になる独特の文体と話法をもっている!と思いました。読者からよせられた恋愛の悩みを読者に求められて「ぶった斬る」のですが、その斬り方が実に天才的なのです。相談者に寄り添いつつ、相談者が内心思っているに違いないことを、多くの読者と一緒に笑えるように斬っていくのです。独特の話法で。占い師や宗教家に近い形でもあるのでしょう、「ゴマ教」「信者」ということばも、相談者のメールから散見されます。この点がまた面白いですねえ。
 また、彼女の書いた白鳥の絵を待ち受け画面にしていると、さまざまな幸福が訪れた!と奇跡のメールも多数寄せられているそうです。私のゼミ生も、この画面にしていたら、彼ができました!と報告していました。これって、宗教学的にいっても、興味深いですので、やっぱりじっくり考えてみたいなあと思っています。
 なんだか書いていて軽いノリのもののようですが、今の社会の言語(コミュニケーション)をこういうブログで学んだりする必要は大いにあるし、興味深いことだらけです。こうした言語を理解することは、自分の考えたり話したりする言葉が、周囲に届きうるものなのか、つながっていける言葉なのか、届く相手を想像していく大事な手段のように思えます。
 しばらく至福のインプットを続けます。
 
 今、学生の3、4年ゼミの募集期間なのですが、せっかく大学に入ったのだから、就職のことも大事ですが、「学ぶこと」って、こんなに面白いのだ!と心底実感してから、卒業されるといいなあとつくづく思います。報酬があるから学ぶ、のではなく、学びそのものが、とてつもなく面白いものであること!それを心身でつかみとれば、社会にでてからも、ずっと学びつづけられ、自分のスケールをどんどん拡大していく楽しさを感じることができると思います。先日のニュースにありましたが、人は報酬によって学ぶとモチベーションが下がる、というデータが検証されたそうです。想像していたことではありますが、実際に人が学ぶのは、何か報酬があるからではなく、やっぱり面白いからですよね。そのわき起こる学びの起動を実感できれば、どこに就職しても、どんな場所でも、成長できるのではないかと思います。
 ゼミでは、いいところに就職するために、大層な知識や資格を獲得するというよりも、その学びの起動を心底体験できて、卒論という一つの自分の成果(そして、社会への贈り物)を作成できれば、それが一番じゃないかと私自身は実感しています。

2010年11月 4日 (木)

夫婦善哉

 私事で恐縮ですが、実家の母がとてもいい写真を送ってくれたので、つい書いております。
コスモスを見に行った場所でとった父と母の写真です。

20101103
20101103_2

 夫婦長い間連れ添うと、あれこれよい事も悪いこともあるけれど、こうして風景と一緒に一枚の写真に切り取ってしまうと、「夫婦って、やっぱりいいものだな」と思ってしまうような気がします。別に、夫婦って本当は悪い、という意味ではなくて、あれこれ葛藤や問題を抱えつつも、こうした写真として一瞬を凍結させてしまうと、それら葛藤などを越えて、これまでの歴史をまた読み替えてしまうものなのかも、と思ったことでした。

 とくに写真ではなくとも、その一瞬を凍結させる(時間の流れを止めるもの)何らかのイメージによって、私たちは、何度も自らの歩んで来た人生や周囲との関係性を読み直して(よくも悪くも)、今を確認しているのかもしれませんね。

熊日新聞に掲載されました

 熊日新聞の11月2日朝刊に、私たち熊本保育研究会の増淵千保美さん(尚絅大学短期大学部講師)へのインタビューが掲載されました。取材された舞永さんも、小さなお子さんを保育園に預けて働かれているということ、共通の悩みや問題意識を抱えておられているのですね。こうした見えない思いを共通のものとして、気づき合うことってつくづく大事だな、と思いました。

 ただ、「当事者」は気づけば、共感に至るまで早いと思うのですが、当事者以外は、共感にはなかなか至らない、忙しい自分には関係ないと思ってしまいますよね。
 これは、私自身にも言えることですが、いろんなことはつながりにつながって、考えればすべてにおいて当事者なのかもしれないのですが、そこには至らず、身近なところでの共感でしかありえません。とどのつまり、「私」の体は、まず物理的に限定的なものだからです。その限定性において、いろんなところまで考え、共感にまで至るにはやはり「想像力」が必要です。しかしながら、そこまで丁寧で広大な想像力は、日常に忙殺される生身の身体において、開かれる可能性はごくわずかです(私の場合)。突出したごく一部の人が、そのような想像力を力に、あらゆる活動をされるのかもしれません。

 そこで、一つしかない生身の身体における「私」から、一足飛びに、茫漠たる「世界」といったところまで無茶な形で想像力を広げた場合、困った事態に陥りかねないですよね。かなりの飛躍や歪曲、荒唐無稽さならまだしも、暴力に至ったりするような気がします。大義のために、隣人を殺害せざるを得ない戦争や、救いのためにやはりサリンを撒いて大量無差別殺人をしかけたオウム真理教のように。

 ちょっと話が飛びすぎましたが、「身の丈で、身近なことから考える」というスタンスは、そのような意味で私の中ではとても大事なものです。保育問題以外にも、考えるべきこと、行動すべきことはたくさんありますが、まず身近な問題の一つとして、この研究会(熊本保育研究会)はめぐりあうべくしてめぐりあった仲間たちだなと思います。
 増淵さんは、私にとってその最たる方です。思考と実践が常に、地に足がついた方です。二人のお子さんを抱えて働かれているその思考は、常に普通の生活が土台になっている、そしてそれを焦らず、急がず、じっくりと地道に行動に移せる希有の方です。
 熊日の記事(記事はコチラから)は、彼女の思考と実践をよく伝えておられると思いました。ありがたいです。

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