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2010年10月

2010年10月26日 (火)

カチカチ山ショック

 少し前の話になりますが、伝えたいことを伝える言葉をどう探すかに関して、真剣にショックを受けたことがあります。昨年のこと、4年のゼミで、たとえ話で「カチカチ山」の話をしたときのことです。

 この民話は、(「周知のとおり」と書くべきか迷うところが今日のポイントです)おじいさんが捕らえた悪タヌキが、おじいさんの留守にまんまとおばあさんを騙し殺して、逃げてしまいます。嘆くおじいさんを見た、やさしいうさぎが、おばあさんの敵討ちに悪タヌキをこらしめるという話です。
 しかし、カチカチ山、にゼミ生のみんな反応しません。きょとんとしているので、もしや・・・「この話、知らない?」と聞くと、「うーん、微妙・・・」という声が返ってきました。「ええっつーーー!」とかなりの衝撃を受けた私は、ちょっと落ち着きを取り戻して、丁寧に聞き直しました。「本当に知らない?」「少しは知ってる?」当時20名弱いたゼミ生のほとんどは、聞いたことはあるけれど、どんな話か具体的にはわからない、ということでした。
 「うさぎとカメ、みたいなものですか?」という質問もあり、「うーん、それとは違うねえ・・」としばし考え込んでしまいました。

 このゼミは、決して勉強が嫌いとか意欲がないとかいうゼミではなく、本当に学びの意欲も高く、活発に意見を交わすことのできる優秀な学生が多いゼミでした。それだけに、いっそうショックでした。
 ある「話型」にそって、説明できないということ。その話型を共有していなければ、伝えたいことの真髄は伝えられないということを、今更ながら実感したことでした。

 思い起こせば、もう15年ほど前になりますが、ベトナム留学中に知り合って、いまでも大親友の当時25歳の友人(日本人です)の「アリとキリギリス」にも衝撃を受けたことがありました。私が、年上っぽく「やっぱりやるべきときにはきちんとやった方がいいよ」という趣旨のことを彼女に話していたとき、「アリとキリギリスのように」と(なぜか私はこういう事例を挙げて話すのが好きだったようです、ちょっと嫌な感じですかね)付け加えました。
 彼女は「そうだよねー!やっぱ、キリギリスみたいに、遊ぶときはしっかり遊ばないとね!」と目をキラキラさせて答えました。「いや・・そうじゃなくて・・」と私の声は小さくなりましたが、同時にこらえきれず大爆笑してしまい、こういう捉え方もあるのか、と思ったことでした。彼女は大真面目に、アリとキリギリスの話の意味は、やりたいことをやれる時間は短いからしっかり遊べ、という意味にとるのが普通だと思っていたそうです。ただし、彼女は、自分で「私はこういうのホントに知らないの!」と自分自身の例外性を認めていました。私たちの世代で言えば、知っていて「普通」のことだったので、彼女のように、私と同じ世代でも「知らない」ことは、「もう!おもしろいねー!」と大笑いの種になるくらいで、今のようなショックとは質的に異なるものです。

 「カチカチ山」の話型が通じない、ことは、もちろん今の世代的にどのくらいの割合であるかはわからないので、例外的な事例である可能性もありますが、20人中ほとんど知らない、ということは、かなりの割合で知らないとも考えられます。別に「かちかち山」を知らなくっても、他の昔話を知っている可能性だった大いに考えられますが、自分の世代が当然と思っている話型が通じない一つの象徴的な事例かなと思えるのです。
 とすれば、自分が講義などを通じて、使っている「ことば」そのものを果たしてどのくらいの人が共有して、理解(とまでいかなかくとも類推)しているのか、かなり不安になってきたのでした。

 また、カチカチ山を知らないとすれば、例えば、子どもの頃にはどのような物語、そのような話型を踏襲した物語を摂取して大きくなってきたのだろう・・・たとえば、困難にであったとき、どういう話型によって、どのような物語によって、その困難を解釈する枠組みを得ていたのだろう?
 大人になるためのロールモデルを提供するのが、こうしたさまざまな物語の担う一つの側面であるとすれば、今の学生さんの世代では、どのようなロールモデルを提供する、どのような物語が、彼らのメインストリームなのだろうか・・・・

 などなど、果てしなく疑問はふくらみます。私の場合は、すぐに思い出すのが、「赤毛のアン」シリーズ10巻と、その後、中学でいじめに近い状況にあったときに強い力となった下村湖人の『次郎物語』でした。今、このような状況であるとしても、高校に行けばその状況は変るだろうし、それまで強くあらねばならない、などと中学生ながらに胸を振るわせて読んだ本でした。今の学生さんの世代では、どのようなものが、それに代わるのだろう・・・

 その後、機会があれば、学生さん(本学と国公立大)に尋ねています。もちろん、学生さんといってもさまざまな層があり、それによってまた傾向は異なりますので、社会科学的な分析とまではいきませんが、今のところ、はっきりしているのは、予想されたことではありますが、書物という媒体は少なくなっていること。書物であっても、マンガが結構な影響をもっていること。マンガは私もすきですし、活字本となんら遜色があるわけではないのですが、私の世代からすれば、ずいぶん変化したなあと思います。もっと前の世代ではなおさらそうでしょう。

 こうしてみると、伝えたいことを伝えるためには、伝えたい相手の理解する話型、具体的な物語を理解しないといけないなあと一層痛感しているところです。『ワンピース』や『スラムダンク』、その他のマンガも一度しっかりと読まなくちゃと思っています。

 このショックは、新鮮なショックとして、私の学びをまた起動してくれるものでした。


 

2010年10月25日 (月)

コミュニケーション能力って

 今日、3年生のゼミのときに、卒業生で住宅販売業の優秀な営業マンとなったKくんをお招きして、就職活動や学生時代の過ごし方、働くということについて、いろいろ話をしていただきました。
 以前、4年生のゼミでもお話してくださったのですが、今日もまたいいお話が聞けました。欠席している学生は聞けなくて、実にもったいなかったなあと思った内容です。働くということに関して、さまざまなエピソードをおりまぜて語ってくれたのですが、なかでも印象的だったのは、彼の話す「コミュニケーション能力」について、です。
 ちょっと想像するに、コミュニケーション能力とは、うまく自分を表現する力、話せる力と思いがちですが、そうではないそうです。では、具体的には何か?彼は、ご自分の就職活動の一例を挙げておられましたが、有名企業の本社面接(東京)でのお話でした。名だたる有名大学の学生たちと集団面接だったそうです。

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 東大や早稲田、青学など、彼からすれば、中央のそうそうたる名前の大学生と、かたや熊本からやってきた自分を卑下して自信を失いそうなところだったそうです。そのそうそうたる大学生の一人が話す内容は、Ⅰ、2年休学して、行く先々でバイトをしながら、バイクでアメリカを縦断した経験談など、彼からすれば「すげー!」とワクワク興味津々で聞くようなことばかりだったそうです。さて、面接の結果は? その学生は落ちて、彼は合格だったそうです。
 なぜでしょう?彼が面接担当官からちらっと聞いたことによると、コミュニケーション能力を見る集団面接では、自分の自慢話を滔々とする学生よりも、そうした学生の話を興味をもって一生懸命うなずいたり、びっくりしたりしながら、聞いている彼の姿の方が、コミュニケーション能力が高いと判断されたようです。
 つまり、アピールできるような内容をうまく語れるか、ということよりも、そういう周囲の人の意見を関心をもって真摯に聞ける力こそが、コミュニケーションを円滑にできるということです。たしかに考えてみればそうですよね。自慢話を滔々とする人よりも、熱心に興味を持って聞いてくれる人の方に、私たちは好意を持って、もっと自分の話を聞いてほしいと自分を開きやすくなるはずです。
 営業をするにしろ、あるいはどんな職種にしろ、これは通じていることです。自らを上手にアピールすることに長けているよりも、相手がいかにこちらに自分を開いてくれるか、それによって相手の心をとらえ、信頼を勝ち得ることが可能です。Kくんの話は、実に説得力のあるものでした。
 私も常々、ゼミ生にそうであってほしい、と思うことにも一致しています。周囲のどのようなことにも、まず真摯に関心をもって聞くこと。それによって、相手は自分が尊重されていることを実感し、どんどん自分を開いてくれるでしょう。そのように、自分を開いても大丈夫な場を相互に築くことができれば、自分の未知の力がいかんなく発揮されていくのだろうと思います。これを言えば否定される、こんなこと興味もってくれない、と思うような場はどんな才能も開花されないでしょう。
 企業やその他のさまざまな環境においても、こうした場をつくることがよい職場環境の基礎では、と思います。「感じの良い人」は概ね話し上手というより、聞き上手であることを考えれば、この基本を備えてはじめて成立する力が、コミュニケーション能力なんですね。
 Kくん、どうもありがとうございました。いつもよいお話を聞けて、勉強になります。このような先輩がいることは、後輩たちの大きな励みになりますね。

2010年10月22日 (金)

村上春樹と「邪悪なるもの」とシンケンジャー

 自分の周囲が雑然としてくるときは、心身の調子もそれに相関しているようです。物が片付かない、ちらかっている・・しかし、それを整頓していくことが億劫である・・・。

 子どもの影響で、「シンケンジャー」という戦隊ものを見ていたときに、いろいろ考えさせられました。シンケンジャーとは、三途の川からやってくる外道衆と戦う正義の戦隊です。興味深いのが、その外道衆がどこからこの世に侵入してくるかというと、「すき間」からなのです。壁と壁の隙間、建物の隙間、ありとあらゆるすき間から、ぬ〜と侵入するのです。すき間というさまざまな秩序の境目に、外道衆というこの世の論理からすれば邪悪なものが侵入してくる、このあり方は面白いですよね。

 部屋のさまざまなすき間のほこり、汚れなどから、そうした「邪悪なるもの」は私たちに忍びよって、私たちを損なっていく・・・のだろうか、と考えながら、雑巾がけなどしていると、思い出すのは村上春樹の登場人物たちです。

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 村上春樹の登場人物たちは、とくに金持ちとか優れた才能があるとか、美貌を誇っているとかではなく、相対的に普通ですが、邪悪なるなにものかと闘います。その闘い方は、物語によっては本当に暴力的に闘うところもありますが、通常の闘い方は、自分の身の回りの生活をきちんと整序し、規則正しく過ごすという形です。具体的には、きちんと食事をつくり、服にはアイロンをかけ、掃除洗濯をきちんと行ない、放っておけばすぐにホコリや油にまみれがちなところをピカピカに磨き上げる。そういう闘い方です。それを「闘う」というのはおかしいかもしれませんが、シンケンジャーを見ていて思ったのは、こういう日々の作業が「すき間」から忍びよる秩序を乱す邪悪なものの侵入を物理的にも防いでいる、という感じがしたのです。

 生活をきちんとするという、ごく当たり前だけれど維持していくのは不断の、地道な努力が必要な作業ですよね。そういうものが、巨悪?かあるいは邪悪なるものに、大言壮語でなく抵抗している形なのかもと思ったりです。

 心身の不調を感じるときは、だから、おいしい食事をがんばって作ったり、掃除に精を出してみるとかが、回復を助けてくれていると、私の場合は実感しています。

 小林靖子さんシナリオの戦隊ものや仮面ライダーなどは、ちょっとしたメタファー「すき間」なんかが、このように、とても考えさせられたりするので、注目しているところです。私と世代的に変らないのも、興味深いところです。
 村上春樹の小説にはあれこれ考えさせられることは当然のようですが、戦隊ものや仮面ライダーなど、いろんな世界の描かれ方もまた、面白いです。

2010年10月20日 (水)

保育・教育を考えるシンポジウムがあります(崇城大学市民ホール)

 11月5日(金)午後7時より「保育・教育を考えるシンポジウム」が、崇城大学市民ホールで開催されます。私たちの「熊本保育研究会」から、増淵千保美さんがシンポジストの一人として、お話しされます。
 なんだかわからないままに制度が変ろうしている、その現在の問題を共有する会です。お時間があれば、ぜひご参加くださいませ。制度は、いつもどうもわからないまま変ってしまって、変ったあとに???と思うことがあります。保育制度もなんだかわからないままに、確実に変ろうとしています。変ったあとで、???と思う前に、多くの方に共有していただこうというのが会の趣旨です。
 また、誤解していただきたくないのは、政治的に反対とか、そういう党派色とは異なるあり方で考えている会です。よく政治色をもって、イデオロギー的に語られる方がおられますが(私も驚くことが結構ありました)、いろいろな立場から問題をまず共有することを目指しているシンポジウムです。
 政治色で語られる意味は、語る側にとって、「敵か見方か」として、簡単に色分けするのに便利かもしれません。色分けは、手っ取り早い理解として簡略で有効ですが、その罠にも十分慎重でなければいけないと私自身もいつも自戒しています。てっとりばやい理解=ラベリングが、問題を複雑にしてしまうことは往々にしてあります。仲正 昌樹 氏の『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』 (ちくま新書(新書 - 2006/5)なんかが、参考になります。
 そういう敵味方の色分けを越えたところでないと、何が問題となっているのか、その問題を共有していくことも難しいのではと思います。というのは、敵見方となってしまったあとでは、問題そのものを捉え損なってしまうからです。

 以下、紹介分をコピーいたします。
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「新制度(子ども・子育て新システム)で保育・教育はどう変る?:現場から検証する」のシンポジウムがあります!

*シンポジウム報告者
建川美徳さん(さくらんぼ保育園長)   :新制度の問題点を語る
中山義紹さん(高平幼稚園長)      :幼稚園の立場から語る
植田しげ子さん(なでしこ園長)     :障害者施設の現場から語る
増淵千保美さん(保護者・熊本保育研究会):保育士の労働・健康を語る

*コーディネーター:高林秀明さん(熊本学園大学社会福祉学部教員・保護者)

政府・民主党は、「子ども・子育て新システム」の法案を来年3月の国会に提出します。新制度は、保育・教育の公的責任を後退させ、営利企業の参入を促進させるものです。今の保育・教育にどのような影響があるのか?どう考えるか?ともに学びましょう。

日時:11月5日(金)午後7時〜9時30分
場所:崇城大学市民ホール(大会議室)
参加費無料。

主催:新保育制度に反対し、保育・教育を考える会
連絡先:ひまわり保育園 096-364-7649/FAX 364-7650

*次回予告
12月4日(土)午後2時より伊藤周平氏(鹿児島大学教授)をお呼びして、学習会を熊本学園大学で行ないます。ご参加ください。

就職活動の現在

 今日、4年のゼミで盛りだくさんな話題がありました(いつも4年ゼミは時間が足りないくらい、いろいろな話で盛り上がります)。就職氷河期に近い、と言われる現状でも、みなさん、本当によくがんばっています。そんな中、ゼミ生からも、一番早く決まるだろうと言われていた極めて優秀な学生が苦戦しています。彼女(Aさん)の優秀という意味は、単に成績がよい、というのではありません。それはもちろんのこと、その他の活動にも積極的で、全体をまとめて引っ張っていくリーダー的な資質をもち、ゼミ生からも深い信頼を寄せられているという意味です。
 私は、どうして彼女が内定をもらえないのだろうとずっと不思議で不可解でした。彼女が内定をもらえるところもあるのですが、彼女が志望している地場企業には苦戦しているのです。今日、再び、ある地場の有名企業に落ちたという話を聞きました。そのとき、その企業に内定をもらった過去の卒業生の顔が浮かび、少しこうかなと理由を想像できることがありました。
 Aさんは、外見から極めてアクティブでパワフルな感じの女性です。一方で、その地場の有名企業に内定をもらった卒業生たちは、ちょっと控えめで、一歩下がった女性という印象です。醸し出す雰囲気には明らかな違いがあります。
 とはいえ、Aさんも、少し一緒にいればわかることですが、分を弁えて、とても細やかな気配りをするいわゆる「女性らしい」方なのです。しかし、面接やちょっとした会話くらいではそこまではわかりません。アクティブ、パワフルそうな人だな、という印象でしょう。
 彼女がことごとく地場企業で内定をもらえなかったのは、おそらく「女性」としての企業内でのあるモデル像から逸脱するからではないでしょうか。女性は大多数の上司である男性に逆らわず、ほどよく支えてくれる存在、そういうイメージで人材を描いていたとしたら、どれほど有能でも、彼女は一見逸脱するのでしょう。有能であればなおさら、男性が多くを占める人事担当や役員の描く女性像から逸脱して、忌避されるのではないか、そんな気がしてきました。今や、男性、女性そんな区別なんかやっていない、いい人材をとるのだ、ということが現状かもしれませんが、選考に影響を及ぼす担当者の「第一印象」は、無意識下で旧来のモデルに従っていることはあり得ます。
 彼女にそのことを話したら、「そういえば、確かに私が内定をもらったところは、東京や大阪に本社のあるベンチャー系のところばかりですね・・」とうなずいていました。つまり、性差を問わずに、成果を見るところでは彼女の有能さに○を出すのですが(そのとおり、いくつか正規の面接をとばしても内定、ということもあったようです)、性差のもとに、職場内の人材をモデル化しているなら(無意識下でも)、やはり彼女のような個性は難しいのかもしれません。
 などなど考えていたら、就職活動の成否って、希望の職場の性差のモデル化に即した雰囲気を醸し出しているか、という視点なんかも必要なのかもしれませんね。
 でも、希望の職場の性差モデルに合わない場合、合う場所を求めるのがよいのか、その性差モデルに合わせて訓練していくのがよいのか(といっても雰囲気って訓練で作れるかどうか・・)わからないですね。
 もちろん、こんなことは一概に言えるものではありませんし。ただ、可能性としてあれこれ考えてしまいます・・・

 悩ましい限りですが、どんな場所にいっても自分が心地良いと思える空間をつくっていける力さえあれば(人と真摯に協力し、信頼される力です)、道は開けていくのかなとも思います。大丈夫、Aさん、そしてまだ未定の4年生。この厳しい就職活動の時期に、あなたがたはきっとうんと成長しているはずです。その成長を評価するところが必ず必ずあると思いますよ。

2010年10月19日 (火)

学びを起動する

 先日、ゼミ生と話しているおりに、『銀杏並木』という熊本学園大学の定期刊行物のことが話題になりました。そこで、私が「学びを起動する」というコラムを書いていて、それを親御さんが目にされ、共感してくださったということを聞きました(意外に保護者は読んでくださっているのですね)。
 学びをどうやって起動させるか。おそらく、かつての大学生だったら「学びが起動するから」あるいは「もっと深い次元で起動することを求めて」大学へ進学したというところかもしれませんが、いまやそれは自明ではありません。また、資格が欲しいから学ぶとか、英語のスコアを上げたいから学ぶというのは、本来の「学び」とはちょっと違うような気がしていました。では、学びとは何だろう。そして、今の学生たちが自分で学びを起動させていくのはどうしたらいいのだろう、そういう問いを漫然と持っていました。そこで、偶然コラムを書くことになり、書いた内容が以下のものです。
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「学び」とは何か。例えば、単に役に立つ知識を蓄積することとは、何かが異なる。長年うまく説明できずにいたが、ある本に「学びとは自分のスケール(判断基準)を拡大していくこと」(内田樹)とあり、ようやく腑に落ちた。そして、ふと大学時代の授業の一コマを思い出した。
「私は、この『は』と『が』の違いに30年かけてきました。」
これは、国語学の講義で、万葉集の歌の中の助詞 『は』と『が』の違いに言及した先生の言葉である。その探求に全く意味を見いだせなかった私は、先生の30年に思いを馳せ、心底呆れ返った。一方で、その探求に30年かけることそのものに衝撃を受けた。私にはまだ理解できない世界に人生の大半を喜んで賭けている人がいる! 
 学生時代に浴びた膨大な知識の渦の中で、この先生の一言がとりわけ私の記憶に残っているのは、おそらく私の「学び」のスイッチが入った瞬間だったからだろう。私のその時の判断基準(スケール)では計れないものに感動している人がいること。すなわち世の中には、自分のスケールではまだ計り知れない未知の世界が深々と広がっているのだという「予感」が、どうやら学びを起動したのである。
 役に立つから知識を身につけるのはもちろん大事だ。しかしながら、役に立つかどうかを判断するのは、そのときの自分のスケールによるしかない。そこで役に立たないと判断すれば、学びは起動せず、私のスケールも不動のままである。しかし、判断を留保した不確かな「予感」のみが、学びを起動する。予感に導かれた学びによって、はじめて「意味」を理解できる次元へと自分自身のスケールが拡大するのである。
 私が「学び」の意味をこのように理解したのも、ついこの頃である。学びとは、かくも時間がかかるものである。
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 読みなおしてみて、「不可解な先生が見ているその先にあるもの」を知りたくて、私は学びを起動してきたなあと思い出しました。役に立つとか、将来お金に換わるという、今の自分のスケールで換算可能な価値を獲得することを学びというよりも、自分の判断基準を拡大することがやはり学びなのですよね。ただ、換算可能な価値を至上のものと思っているかもしれない一部の学生さんには、これをどう具体的に説明していけばいいのでしょう?
 やはり、どう相手にわかるように伝えられるか、その「つなぎ方」の重要性に突き当たりますね。

2010年10月18日 (月)

まちづくり会議in 熊本

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 先日、10月9日(土)10日(日)に熊本市民会館で、全国まちづくり会議「元気まちづくり」が開催されました。そのポスター出展で、4年ゼミ生の三隅ちあきさんが、熊本学園大学ホスピタリティ・マネジメント学科代表で行いました。昨年度から、同じくゼミ生の清田静香さんや本山美里さんたちと熊本市の古町・新町を中心として「てづくりマップ」を作成していたのですが、その成果をポスターの形で報告したものです。
 全国から、いろいろな方が「まちづくり」に熱意をもたれていて、都心でみつばちをかって、町おこしなど、興味深い内容もたくさんありました。三隅さんは、忙しい中に立派なポスターを仕上げてくれて、本当にうれしかったですね。つい、ゼミ生自慢になりますが、彼女や他のゼミ生の思考や行動には、私自身も本当に感服して、見習わねばなあと思います。
 「てづくりマップ」は、いろいろな方のご協力で、駅などにもおいていただけているようです。熊本出身ではない私も、学生の目をとおして、熊本の素晴らしさを体験できるいい機会を与えていただいています。

2010年10月17日 (日)

熊本保育研究会

熊本保育研究会のHPを作成して、このごろちょっと一息です。
おそらく子どもをもたなかったら「他人事」であったことですが、「社会と私のあいだ」を考える重要なタームになってきたなあと思います。
ともあれ、HPを作成しようとして、またブログまで書くようになった自分に驚いています。
環境が人を育てる(変化させる?)、をつくづく実感します。

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