2023年1月30日 (月)

信仰の力

長らく訪問させていただいている自立準備ホーム「オリーブの家」(熊本市)の営みは、信仰がいかに大きな力をもちうるのかを証している場所だ。彼らが刑余者を支える「あり方」そのものが、信仰の実践になっている。

施設長自身が刑余者で、受刑中にクリスチャンになったことから、出所後の自立支援の道が始まる。彼の真摯さ、熱意に周囲の人々が動かされて、今の施設運営に至っている。そして、今ではスタッフも自立準備ホームでかつて支援を受けた人たちが占めている。

彼らのあり方から学ぶことは尽きない。

2022年2月10日 (木)

卒論がんばりました

今月はじめに、ようやくゼミ生全員の卒論が完成。おみやげ、オタク、BTS、化粧、ダンス、部活動、ポリコレ、笑顔の在り方、演劇、幸福、メディア、YouTube、ミニマリスト、自己肯定感など、それぞれの関心のある対象について、ホスピタリティを通して考えるというものだ。力作揃いだと思う。はじめは、なかなか進まなかった彼女たちも、ある時からぐんぐん書き進むようになる。

なぜ、この対象を選択したのか、それは自分の何か言葉にできないものを反映しているからにほかならない。それとの格闘を通して、大学で4年間学んできたホスピタリティの概念を捉えると、自分にのみ語りうるホスピタリティの形が浮かび上がる。

4年生最後の時間にかなり大変だったと思うが、完成したときの喜びは一入だろう。私もゼミ生との論文を通したやりとりによって、やっとこの方はこういうことを考えていたのか、こういうことに関心をもって、こうしたことを大事にする方だったのかを発見する。

それは一つの喜びでもある。こうした時間を共有できることに感謝である。毎年のことだが、彼ら彼女らから学ぶことは、本当に大きい。

2021年2月26日 (金)

オープン・ダイアローグと余白

ふと記憶がよみがえり、悲しさや怒り、焦りや居心地の悪さを味わうことが常だ。そのときの私は、自分の中の独り言の世界に埋没して、世界には私しかいない。他者がいない世界で、ぐるぐる自分が生み出したモノローグの毒素や甘みを吸っている。

しかし、ふと、誰かが私に声をかける。私のモノローグは停止し、世界に他者が現れる。他者の言葉や行動を解釈して、他者と会話しながらも、また一方で自分のモノローグが始まる。そのときに、他者はいない。世界はまた私一人だ。

私が他者の存在を認め、他者の言葉に耳を傾けるとき、世界は開かれる。自分の閉じた世界の外へでる。そこは無限。荒漠とした、あるいは深々とした悦びに満ちたものか。他者を他者のままに、自分の世界にひきずりこんで解釈するモノローグにはしないままに、近接する場所か。

他者という未知の、理解を超えた他者性を理解の枠にいれずに、そのままにするときに、私と他者の間には、余白がある。その余白が無限の形としてさまざまに変化したグラデーションで存在する。私は余白を味わう。余白を余白のまま、モノローグにひきずりこんで私一人の世界でいないために。

余白を余白のまま味わうダイアローグは本当に難しい。世界に向かう姿勢そのものが問われる。

オープン・ダイアローグの素晴らしい本。ヤーコ・セイックラ+トム・アーンキルの『開かれた対話と未来』(斉藤環監訳・医学書院、2019年)を読みながら、レヴィナスの倫理の具現化を見る。

 

 

2020年8月31日 (月)

久しぶりです

記事を更新しなくなって、驚いたことに8年ほど経っていた。学内のHPやSNSが整備されて、当時はそちらに投稿することが多くなっていた。

この頃は、新型コロナの影響により、今年の春から遠隔授業がメインとなり、大きな変化の中にいる。卒業生は、卒業式ができずに、十分な送別もできないままに送りだすことになり、新入生にも十分な歓迎や従来のようなオリエンテーションも不足した状態で夏休みとなっている。

余儀なくオンラインとなった講義では、私自身、大きな気づきを得ている。試行錯誤で講義動画を作成しながら、これまでの講義の内容を精査することができて、不要なところや必要なところが明瞭になった。これからの課題も多く発見した。余儀なくの事態ではではあるが、新しい学びの多い毎日である。

2012年3月26日 (月)

卒業生に送る言葉

 時間が前後しますが、卒論集のはじめに、ゼミ生に送る言葉を書きました。毎年似たようなことを書いてはいますが、少しずつ違います。卒論作成を通して、学生たちに感じたことを書きました。

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 みなさん、ご卒業おめでとうございます。
 テーマが自由な卒論は、一見魅力的です。でも、最後の最後までとことん自分と向き合い続ける、実は厳しいものでもあります。まず、何を問いにするのかに悩まれたでしょう。いくつもある好奇心や関心のうちどれを選択していくのか、どのように絞っていくのか。そして、作成していくなかで、安易な道に流れるか、本当に問いを追求しつづけられるか、ご自身と向き合い格闘できるかの試練だったと思います。
 その中で大事なこともあります。周囲の意見やアドバイスを積極的に聞くことができるか、そして、それにしたがってさらに問いを深化させることができるかです。自分の中に閉じこもって孤独な作業をする時間と、周囲の意見を聞くこと、より多くの文献を探し、その文献の著者たちと対話していくこと。これは、とくに卒論に限らず、多くの仕事においても、ひとつのものを完成していくために必要な作業でもあります。

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最後に。
 ごく当たり前のことですが、みなさんに、ぜひ忘れないでいただきことことがあります。それは、人から助けてもらえる姿勢です。私はこれが「礼儀正しさ」であると考えています。アランによれば、礼儀正しさは、同時に、自分の人生を大事にすることにもつながるんですね。
 

私は礼儀というものをこのように考えたい。それは、情念に対する体操にほかならない。礼儀正しいとは、すべての身ぶり、すべてのことばによって、次のことを言うか、表情で示すかすることである。「いらいらするな。自分の人生のこの瞬間をだいなしにするな」と。(アラン『幸福論』1993年、263頁、集英社文庫)

 自分の情念を解きほぐす礼儀正しい振る舞いで、上機嫌であるための意志を持ち続ける、私もそうありたいなあと思っています。この卒論をご自身の出発点として、これから出会う多くの人の力を借りながら、ご自身の問いを開いていってください。

みなさんの前途が上機嫌のあたたかさに包まれますように。


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なんだかいつも当たり前のことしか書いていませんが、私もつい、忘れがちですが、そうありたいなあ、と思うことです。

写真は熊本城天守閣から見た風景です。冷たい風のなかに、ふわりの暖かな春の匂いが立ち込めていました。


2012年3月23日 (金)

卒業おめでとう!

 昨日は、ホスピ学科4期生の卒業式でした。暖かい日差しの春らしい日で、学生たちの笑顔も、晴れ着に負けないくらい輝いていました。がんばった卒論集を渡して、学位記授与を終えると、全員で記念撮影。

 80名ほどの全体写真なので、どのお顔も重ならないようにするために、撮影までカメラマンは一苦労のようでした。

 夕方からは謝恩会を開いてくれました。学科の教員たちが学生の企画に招かれて、楽しいパーティです。花束贈呈のときには、「仰げば尊し」が流れて、「えっ!」と驚きましたが、目頭が熱くなりました。

 担当したゼミ生たちも、4月からの勤務地のことを期待や不安とともに話す学生もいれば、研修で当初の契約と違って、辞めて就活をはじめたこと、内定もらっているけれども、まだ思案中とか、厳しい現状を実感しました。

 ただ、彼女たちの顔は4年の大学生活を終え、卒論を書き終え、ある達成感を経た表情に見えます。そう、あきらめない、素直でいること、自分を開いていくことで、また道は開かれると思います。

 ゼミ、楽しかったねえ!と何人かの学生が言ってくれたことで、私も2011年度を終えた気がしました。
卒業しても、ずっと応援しているので、遊びにおいでね!

2012年2月28日 (火)

卒論タイトル

 もう2月の終わりですね。今日、ようやく2011年度の卒論集の原稿を印刷業者にお渡ししました。
ようやくです。今年も16の卒論が形になりました。あれこれ試考錯誤の連続だったと思いますが、それぞれの学生さんはよくがんばりました。卒論の添削指導をしているなかで、ようやくこの学生さんはこういう特徴があるのか、と卒業間際に垣間見ることしばしばです。題材の選び方、参考文献との格闘、文体、構成の力、取り組む姿勢など、本当に彼女たちの人柄や今後の方向性まで、なんだか想像可能なほど・・です。
私は卒論指導をしていると、自分自身も本当に勉強になります。こういう視点もあったのか、なるほどこういう面白さもある、といっしょに考えていると、自分の見方が拡大し、ワクワクします。このワクワク感が、ゼミではとっても楽しいのです。
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「ウチナーククルぬんおもてなし〜 日本最南端県のリゾート観光から学ぶ」
「DIET」
「愛される女性の秘密 〜 化粧とホスピタィティ」
「好感度を上げる  〜 必要とされる人になるための雰囲気づくり」
「美を求める私たち 〜 美容が与える影響と効果」
「『ONE PIECE』 〜 アニメから学ぶホスピタリティ」
「一杯の心 〜 お茶とホスピタリティ」
「アニメーションから得るホスピタリティ」
「Let’s surprise! ~ サプライズに隠された思い~」
「『魅』 ~ ポップカルチャーとホスピタリティの関係について」
「パーフェクトスター IN 韓国」
「温泉から湧き出るホスピタリティ〜 日本は温泉大国!」
「商店街の魅力再発見 〜 人がつくるまち」
「不動産業界におけるホスピタリティ」
「ハローキティ旅物語〜 キティは語る、人のそばにいる理由」
「ブライダル産業とホスピタリティ」

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 私はテーマを自由にしているので、本当に多様です。ただ、テーマとした内容をどれだけ深められるか、ホスピタリティという鉱脈に突き当たるところまで、掘り下げることが必須です。
 美や化粧、好感度、ダイエットなど外見への関心も高いですね。それぞれの視点でのいい論文です。独自の関心にしたがって掘り下げているので、同じような結論にならないのが素晴らしいです。また、韓流やポップカルチャーへの眼差しも面白いです。海外への受容についての比較や、韓国と日本の文化論を考察している点、切り口の新鮮さで面白いです。また、ONE PIECEやアニメというサブカルチャーは、自分自身の経験と重ねて論じています。沖縄に国内留学した学生の沖縄論や、ブライダル産業への関心からその将来を考察するもの、サプライズという対象でする者される者を細かく論じたものなど、個性豊かです。お茶文化を現代的視点で捉え直した「茶ガール」も興味深いですね。商店街についての論文は、自分でインタビューにいき、調べてから論文にいっそうの活力が生まれたようです。不動産業界に就職する予定の方は、その業界が自分の学んだこととどうリンクするかという視点でまとめているので、きっと今後の道標となるでしょう。
 この中でも「おお!」と思った論文は、キティちゃん論です。キティがなぜ愛されるかというコンテンツ産業で論じられるカワイイ論はよくありますが、この論文の切り口は「ご当地キティ」です。なかなか面白いでしょ。それを、郷土のモノ、ヒト論とホスピタリティに結びつけて、よく掘り下げた考察をしています。彼女は、趣味が新聞を読むことであるというだけあって、語彙も豊富で、実に表現が的確でわかりやすいものでした。

 どの論文を読んでも、ああよくがんばったなあ・・としみじみとした感慨に耽ります。何かの形にするまで格闘した経験は、きっと社会に出てからも、自分を振り返る土台となるでしょう。よく頑張りました!

2012年1月20日 (金)

たいへんお久しぶりです

 もう2012年になりました。昨年より更新しないままで、本当に久しぶりです。学科のHPのニュースを書いたりしていたので、こちらはすっかり疎かになっていました。同時にブログというのは難しいものですね。内容は違いますが。講義もそろそろ最終となり、あと非常勤で行なうところが少し残っているくらいです。このくらいになるとようやく心の余裕というものが出てきました。

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 年頭に恒例の水俣病事件研究交流集会(1月7日〜8日@水俣市公民館)に参加して、また気力が湧いてきました。この研究交流集会は、研究者だけでなく、患者さんや支援者、そのほか地元の方、写真家、マスコミ、関心のある方ならだれでも参加することができます。原田正純先生にも久しぶりにお目にかかり、ウキウキでした。先生も退官されてからは、めったにお目にかかれる機会がなかったので、テンションが上がりました。大学院の頃にはじめてお目にかかったときから、先生のお人柄に魅了されていたので、一層です。私のように感じる方は数限りなくおられるだろうなあと思います。
 水俣とフクシマを並べて語るけれども、根本的に違うということもおっしゃっていて、国の関わる規模が異なり、明らかな国策というのが一目瞭然というようなことをちょっとお話していました。お話しするだけで、何か心が和み、真摯な気持ちになるので、年頭からいい気分でした。

 また、事件研究会で再認識したことは、水俣に関わってきた方々、私が知っている方々でも、本当に魅力的な方が多いということです。それが、この事件研究交流集会の魅力です。夜の懇親会では、マスコミの方も多く参加、自己紹介されていましたが、真摯に報道に取り組んでおられる方が多いのだなという印象を受けました。自由報道協会の設立など、ジャーナリズムの崩壊のようなことも指摘される中で、地元の報道の世界では志を高く持たれている現場の方がいる、と実感しました。ともあれ、毎年のことですが、私にとって収穫の多い会でした。

2011年11月14日 (月)

icloudってすごい

 とっても久しぶりです。ブログの意味は更新することである、と理解しつつも更新がご無沙汰になりました。
 講義の準備や論文の提出などにかまけており、それも決して苦痛ではなく、楽しくやっておりました。時間が迫ると、集中力が高まるのか、どんどん読みたい本も増えていきます。そして、知りたいことの広がりを感ずるにつれ、幸福感も増し、それに浸りながらも、形にする期限とせめぎ合う日々。日差しの柔らかな秋の心地よさと同じくらい心地のよい日々でした。

 先日、iphoneを新機種に乗り換えた折に、ipadも初代から2へと移行しました。カメラの画質がすごくて、本当にビックリです。私が今何より、重宝しているのは、icloudです。大学で仕事した内容が、すぐに自宅のバソコンにもモバイルにも反映されていて、「ああ、助かる・・・」。プロジェクター使用の講義資料も、作成したとたんipadにもiphone にも反映されているため、ipadに移す手間もなくラクラクです。本当にすごいなあ・・と感心しきりです。このあいだは、手間取りましたが、録画した映像をiphoneからプロジェクターに映しだせたので、こんなに小さいものから講義資料が準備できるとは・・・。重いパソコンを抱えていた少し前の時代がセピア色になって脳裏を駆け巡りました。

 90年代後半からAppleのパソコンにお世話になっていますが、機器は苦手なので、書類作成くらいしか使えませんでした。しかし、講義で視覚教材の必要性をつくづく実感したここ数年、なんとか映像資料を使えるように揃えたりしてきました。Appleは、私のような人間でも使うことができるように工夫してくれているのが、本当にすばらしい・・・こういう利便性を生かして、もっと学生さんにきちんと伝わるような講義が工夫できるといいのですが。
 それにしても、開発者はこういうすごいシステムをよくつくれるよなあ・・・と思いを馳せると、自分の周りの一切合財の事物にも、改めて考えれば驚嘆するものばかりです。「人間はコトバをもっているがゆえに、一部の天才の発明を時間や空間を超えて多くの人間が共有できる。そしてその蓄積が今の文明となる」ということをしみじみ実感します。一部の天才の恩恵をちゃっかり共有しながら、それでも自分の場でできうることを積み重ねていくうちに、またどこかで天才が新しいことを発明していくのでしょうね。

 そういう想像をしていくと、自分もその文明の一部のような気がして(その通りなのですが)、けっこういい豊かな気持ちです。

2011年9月 1日 (木)

「間」の取り方

 若い頃は、対人関係でうまくいかないことで若者特有の悩みを抱えていました。なぜ、あんなに悩んでいたのだろう?私自身に関していえば、「誰もに好意をもたれたい」という純粋だけれど、途方もない望みを抱いていたな、と思います。
 
 ああ、本当に年齢を重ねてよかった。今は、そうした途方もない望みを抱かなくなったため、かなりシンプルになりました。
 原則は、私が「友達になりたいか」「(積極的に)なりたくないか」「どちらでもよいか」という第一印象からくる直感にしたがって行動すること。そのため、「好意をもたれるためにはどうしたらいいか」に拘泥する時間がかなり限定されてきました。(これでいいのか?という問題もありますが、今回は脇におきます。)

 これらは、残る人生の時間が少なくなったせいだろうかとも思いますが、「友達になりたい」と思う人のみに拘泥しているので、若い時のような思い煩いがぐんと減りました。さらに、第一印象からくる直感というものも、結構優れてきたようで、合うと思ったタイプの人はたいてい合うし、合わないと思った人は、一旦合うように見えて、やっぱり合わなかったということを実感します。

 先日、もう16年も前にベトナムで、ほんの数日一緒にフィールドワークに参加したラオス研究者の知人から、彼女自身の翻訳書が送られてきました。彼女は、私とほぼ同じ年で、当時はラオスに留学中で、ラオスの近現代史を研究されていました。なぜか、私にとってとても印象深く親しみのもてる方で、ほんの数日ご一緒しただけだったのに、帰国後も、季節のごあいさつくらいですが交流の続いている希有な方です。
 直接お会いしたのは、ベトナムから帰国後、福岡に彼女が来られた折に夕食をご一緒したくらいで、あと10年以上もお会いしていないのに、私の中ではいつも親密な感じをもっている方なのです。そして、それは彼女も同様のようで、折々の手紙でそのことを書いてくださると、改めてうれしく、同時にどうしてだろうなあ、と不思議にも思っていました。

 私は、自分が友達になりたい、好きなタイプの人について、かなり明確に表現することができますが、その最も核心となる部分については、どうも曖昧でした。ラオス研究者の彼女のことを考えて、ふと、思ったのが、「間」です。お互いに対峙したときの、「間」の取り方がとても合うのです。沈黙が苦痛ではなく、沈黙のあとで、にこっと笑い合える、そういう「間」の取り方ができる。
 思い合わせれば、今でも仲のよい大好きな友人たちは、みんな「間」の取り方が合う人ばかりです。
逆にいえば、どんなに素敵だと思う人でも、自分と「間」の取り方が異なると、一緒にいるのに緊張し、やがて音信も途絶える。そんな感じです。

 では、「間」の取り方(あるいは「間」の表現)って何か?おそらく、相手を受容する(肯定する)雰囲気が、その「間」にこそあらわれる、ということなのかもしれません。つまり、「この人は自分を受容してくれている」ということを直感的に確信することが、私と「合う」人だという認識につながるようです。
 言葉でいろいろ素敵な興味深いことを聞かされても、ふとした「間」の取り方でこちらに対する「受容度、寛容度」をキャッチして、私は自分と「合う」「合わない」を察知するのでしょう。

 これは、あながち間違いではないような気がします。これらの「察知」も、年をとればこそです。やっぱり齢を重ねることは、いいことがたくさんありますね。

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